拓本と陰刻本 ― 和漢古書の法帖の書誌(その2)
こんにちは。AS 伊藤です。主に和漢古書を担当しています。
書道手本(法帖)について、前回はその物理的な形態について見てきましたが、今回は印刷形態について述べたいと思います。
前回、石碑や摩崖について触れましたが、そうしたものはそれ自体一つの媒体(メディア)であり、そのものの堅牢性・耐久性という点では、紙などよりむしろはるかに強いという側面があります。実際、紀元前の西周時代の石鼓文(せっこぶん)や秦始皇帝の瑯琊臺(ろうやだい)刻石・泰山(たいざん)刻石といったものが現在まで伝わっています。
漢代に儒教が国教化されると、テキストの異同を正し、オフィシャルに定められた本文を恒久的に伝えるために、五経をはじめとする経典を石碑に刻した石経(せっけい)が作製されるようになりました。後漢末の熹平石経(きへいせっけい)や三国時代の正始石経(せいしせっけい)といったものは断片しか残っていませんが、現代までほぼ完全なかたちで伝えられているものとしては、唐代の開成2年(837)にみやこ・長安(現・西安)に建てられた開成石経(かいせいせっけい)があり、そのテキストがスタンダードなものとして位置づけられるとともに、刻された楷書の文字も一つの規範としての地位を獲得しています。
しかしながら、こうした石刻資料は、その場に行かないと目にすることができないという一大弱点があり、紙の発明後、石碑や摩崖をそのまま紙に写し取って世に広めることが広く行われました。この写し取る技法の代表的なものが「拓本」です。
具体的な方法としては、濡らした紙を、拓本をとる対象に密着させて貼り付け、表から墨を含ませた「たんぽ」をポンポンと打ちつけて紙面全体に墨を付け、乾いてくるのを待って剥がす「湿拓」が用いられます。紙の裏を対象の面全体に貼り付けますので、オリジナルを原寸のまま写し取ることができ、出来上がりとしては地が墨色となり、刻まれている文字の部分は白抜きとなります。しばしば誤解されることがありますが、対象そのものに墨を塗ってそれに紙をあてて写し取る「魚拓」の方法は、左右が反転しますので、石碑などの拓本をとるのに用いられることはありません。
こうして作られた拓本は、原物のとおりのものを、紙という扱いやすいどこへでも手軽に運べるメディアへと媒体変換したものであり、正確な経書の流伝や書道の発展に大きく貢献したものと言えます。ただその製作はそれなりに手間のかかるものであり、雨天や強風の際には行えませんし、現場で一度に作れるのは多くとも数枚というところで、物理的な点ではやはり限界がありました。
そこで拓本をさらに版木や石材に彫り直して「版」を作る「模刻」が行われるようになりました。この場合での一般的な印刷方法は、通常の木版印刷と同様、版のほうに墨を塗って、紙の表を版に貼り付け、上から「ばれん」でこすって摺刷するもので、碑のある現場に出向く必要はありませんし、一度に数十部から数百部を作成することができます。ただ、ふつうの木版印刷では文字の周りの地の部分を彫って字を黒く刷る「陽刻」になるのに対し、書道手本の場合は、できるだけ拓本のようなフンイキを出すべく、拓本と同様に字の部分を彫って製作しているものも多いです。
こうして地が黒く文字が白抜きになっているものについては「陰刻本」と注記しておいたほうがよいと思いますが、とくに版の材料として石を使用している場合は拓本との区別がつけにくいこともあります。
拓本と陰刻本の見分け方としては、・拓本は黒地のところがべったりと平板な感じで、白抜きのところが立体的にへこんでいる ・陰刻本は「ばれん」でこするのでとくに裏面に線状の摺り跡が残ることが多い といったポイントがあり、見慣れてくるとある程度は区別がつけられるようになります。
といって、近代のコロタイプ印刷の精巧な複製となるとそうした特徴もありませんが、それらはそもそも現代書なので和漢古書としては記録されません。いずれにしろ、既存のオンラインの書誌の情報は慎重に受け取っておいたほうがよいように思います。