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2023年8月 アーカイブ

2023年8月31日

記憶の底の合宿

8月の雑記テーマは「合宿」です。

小・中・高と合宿とは無縁の生活を送っており、大学に入ってからの合宿と言えばただただ遊ぶ・食べる・飲むの思い出しかなく、どうしたものか...
記憶の糸を手繰り寄せていると、突然思い出した合宿がありました。

中学1年生のときに通っていた塾の夏合宿です。
同級生のお父さんが近所の幼稚園の教室を借りて開いていた寺子屋のような塾で、合宿と言っても「必勝」とか「合格」などのハチマキとは無縁のものでした。
勉強もしたはずなのですがその記憶はほとんど残っておらず、覚えているのは合宿先でのお土産の買い物のみ。
どういう交通手段でどこに行ったのかも思い出せません。
2年生に進級する前に同級生一家が引っ越してしまったため、その塾も夏合宿もなくなってしまいました。
数十年ぶりに記憶の底からよみがえってきた合宿の思い出です。

8月も今日でおしまい。
コロナによる行動制限がなくなった今年の夏休み、初めて合宿を経験した子もいるのではないでしょうか。
楽しい思い出ができているといいですね。

2023年8月30日

きょうのデータ部☆(8/30)


目録作成時に使用するメジャー。
よく見るところんとしていてかわいいです。

私の相棒は、黒のシュッとしている子です。

めじゃー.jpg

2023年8月28日

撰文者と揮毫者 ― 和漢古書の法帖の書誌(その4)

こんにちは。AS 伊藤です。主に和漢古書を担当しています。

前回まで法帖の印刷形態について書きましたが、今回は、書道手本において主たる責任表示としてどの役割の人を選ぶか、という問題について考えてみたいと思います。

王羲之の「蘭亭序(らんていじょ)」や空海の「風信帖(ふうしんじょう)」といった場合は、内容をしたためた著者が同時に筆で書いたひとその人であるわけですから、責任表示でとくに迷うこともありませんが、たとえば趙子昂(ちょう・すごう)の「行書赤壁賦」や松下烏石(まつした・うせき)筆の「千字文」といった場合はどうでしょうか。こうしたケースでは、それぞれの本文の撰者自体は筆者とは別にいるわけで、巻頭に「宋蘇軾撰」とか「周興嗣次韻」といった具合に、テキストの著者が明記されていたりすることもよくあります。
ですがこうした場合、「書」の作品としての価値を決定づけているのは、だれの書蹟かということであって、テキストの内容が問題になるわけではありません。「赤壁賦」や「千字文」はこの場合、書の材料として選ばれているだけで、内容を誰が作ったということに意味があるとは言いがたいです。
ということで、法帖においては、いわゆる標目著者となるのはあくまで「書者」であって、撰者ではありません。「子部・藝術類・書畫之屬」のところで、いろいろな書家の手になる「赤壁賦」が蘇軾のもとに集められてもあまり意味はないので、テキストが何であれ趙孟頫(子昂)の書がまとめられていることにこそ意味があるのです。
ことに、日本の書家が中国の文章を書したものの場合、それは基本的に国書の「書」の作品であって、テキストの著者が中国人であり、テキストが中国語だからといって、漢籍にするわけにはいきません。こうしたものについては、すくなくとも「タイトルの言語」は日本語とすべきものと思います。『国書総目録』はこうしたものを日本人の「著作」ではないということで採録対象から除外してしまっており、岩坪充雄氏が「唐様法帖の書誌学的問題点」(2006)という論文でその扱いが不適切であることを指摘しています。

ただ、モノの成立過程を考えた場合、最初にあげたような「撰并書」というのでないケースにおいては、テキストをしたためた人(撰文(せんぶん)者)と書した人(揮毫(きごう)者)にははっきりと先後関係があるわけなので、その点では第一著者としてはやはり撰文者のほうを記録したくもあります。実際、撰文者がはっきりしている書道手本では、ふつうの図書のように巻頭に撰者が記載されていて、書者のほうは本文末に「~書」「~筆」「~毫」などとあることが多いですし、どちらも巻末にあるような場合でも、基本的に撰者のほうがさきに位置しています。
とはいうものの、表紙のついている法帖などでは、見返しや題簽に「〇〇先生書」と書家の名前を大書していることも多いです。ですので、揮毫者と別の撰文者は、やはり責任表示とはせず、著者にかんする注記として記録しておいたほうがよいのかなと思いますし、上記のテキストや「帰去来辞」(陶淵明)「岳陽楼記」(范仲淹)といった定番中の定番のものの場合は、その注記さえも不要ではないかと思います。

また、前回触れた「臨書」の場合は、実際としてはそれを行ったほうの人の「作品」ということになります。たとえば「臨智永眞草千字文」といった場合は、智永(ちえい)書の「眞草千字文」を臨書したものということで、臨書者のほうが責任表示として記録されることになります。ただ、オリジナルの書者との関係は、いわばテキストにおける原著者と改編者の関係に類しますので、それに準じて扱えばよいかもしれません。
「搨模」のほうは名の知れた書家がやるものでもありませんが、ただ名筆の書蹟から一字一字を双鉤填墨で写し取ってそれで文章を再構成する「集字(しゅうじ)」においては、これを行った人が副次的な責任表示として記録されることになります。著名なものとして、王羲之の行書を集めて碑に刻した「集字聖教序(しゅうじしょうぎょうじょ)」という碑帖がありますが、これなどは「(晉)王羲之書 ; (唐釋)懷仁集字」と著録されることになります。
ちなみに、碑帖の場合は、以前触れた「題額」を書いた人が本文の筆者と並べて記載されていることもよくあり、こうした人も2番目以降の責任表示とするか、著者にかんする注記として記録するかしておいたほうがよいでしょう。

以上の通り、撰文者と揮毫者が異なる「書」の作品の場合は、揮毫者を主たる責任表示とすべき、というのが原則ですが、実のところ例外もあります。たとえばある人の著作中の文章や語句を、何かの記念などでいろいろな書家が書したといった場合の一つ一つの書や、「赤壁賦」や「千字文」のような定番のネタではなく、書家が個人的に好きな詩人の詩句をいくつか選んで書したのを本にしたといったようなものは、これは誰のテキストかということに意味がありますので、撰者のほうを主たる責任表示としてもよいのではないかと思われます。
あるいはまた、書した人が名のある書家ではなく、単なる一個人が練習のため書蹟を臨書したというような場合は、客観的に見てその人の「書」の作品と見るのはやはり不適当で、通常の書写資料と同じく、製作事項として「何某 [写]」としておくべきものと思います。もっとも、これは立場や見解によって扱いが分かれるであろうところで、ご当人は責任表示として「何某書」、製作事項として「何某 [自筆]」とせよ!、と強く主張されるかもしれませんが。。。

2023年8月25日

拓印本・双鉤本 ― 和漢古書の法帖の書誌(その3)

こんにちは。AS 伊藤です。主に和漢古書を担当しています。

前回、版を作製して印刷する「模刻」について述べました。こうした模刻の場合は、一般的には、刷りあがった紙が正しい向きになるよう、版のほうは左右を反転させて彫りますが、こうするとどうしても筆勢が殺され、原物の趣きが十全には伝わりません。そこで、版のほうに正文字を陰刻し、碑文から拓本を取る場合と同様の方法で摺り取った「正面刷り」の法帖も製作されました。こうしたものを「拓印本(たくいんぼん)」と呼んだりします。法帖類の中でも、ふつうの陰刻本(左り版)は普及品、拓印本(正面版)は特製本という位置づけになります。
なお、この拓印の手法は絵本類にも応用され、伊藤若冲などによる拓版(たくはん)のすぐれた作品が残されています。

通常の模刻にせよ拓印にせよ、最初の工程としては原本のとおりに版を作製するということが必要になりますが、近世以前において書蹟や拓本を原本のとおりに写し取るやり方としては、大きく2つの方法がありました。一つは原本を向こう側に、手前に別の紙を置いて、その紙に筆勢を意識しながら忠実に書き写すもので「臨(りん)」と言い、もうひとつは薄い紙を原本の上に置いて丁寧に写し取るもので「摹(も)」と言います。こうして臨摹した紙を版木や石の上に貼って彫りつけるなどして版を作製して印刷に付すわけですが、もちろん臨摹した写し自体も複製物の一種と言えます。
臨書による正確な複製は臨書者に相当高い技術が求められますし、原本を完璧に写し取るというのは、現実としてはなかなかむつかしいものがあります。これに対し、後者では「搨模(とうも)」と言って、細筆で文字の輪郭を写しとり、その中に裏から墨を塗るという技法が開発され、これは特段の技倆を要しませんので、広く用いられました。このやり方を「双鉤填墨(そうこうてんぼく)」と言います。書道手本の中には、文字の輪郭線を正確に示すためにか、中を墨で填(うず)めないまま完成としているものもあり、これは「双鉤本」とでも注記しておくべきでしょう(時に、朱筆や藍筆で中を填めている場合もあります)。

書の手本とすべきものとして複製の対象となるものは、刻石や碑文の拓本なり王羲之(おう・ぎし)をはじめとする名人大家の書蹟なりですが、両者を総称して「碑帖(ひじょう)」と称することもあります。そもそも碑と帖というのはまったく別の性質のもので、前々回に触れた長尾雨山氏の講演によれば、「述徳崇聖(じゅつとくすうせい)」「銘功(めいこう)」「紀事(きじ)」「纂言(さんげん)」の四通りのいずれかの目的で文章を石に刻して建てたものが碑、古人が白い布(帛)や紙に、手紙のようなものをはじめとしてその他何にかかわらず書きつけておいたものが帖、ということになります。
ほんらいは、前者(碑版(ひはん))を拓本にとったもののことを「碑帖」、後者を模写したもののことを「法帖」という具合に、二者択一の限定的な意味でこれらのタームは用いられていました。ですが、オリジナルが碑文か書蹟かが異なるだけで、その後の複製の制作過程が基本的に同じということから、両者を同一視して「碑帖」を広義の「法帖」に含めたり、「碑版法帖」を略して「碑帖」と言う、といった説明がされることもあります。このあたりは例によってちょっと錯綜していますね。
ついでに言えば、長澤規矩也氏の『図書学辞典』には、「石摺本(いしずりぼん)」という項目があって、「拓本をまとめて本の形(多く帖装本)にしたもの。石本(せきほん)。搨本(とうほん)。打本(だほん)。」(p49)という説明がされていますが、中野三敏氏によれば「木版に応用した場合も、この用語をそのまま用いて、普通に「石刷り」とよぶことが多かった」(『和本のすすめ』(岩波書店2011)p109)ということであり、また近代の石版印刷(石印)ともまぎらわしいので、あえて使用しないほうが安心安全でしょう。「石碑の石摺又はその覆製を本にしたもの。」と説明されている「碑本(ひほん)」というタームも同様かと思います。

2023年8月29日

リアルな木彫り、キボリアル

本日は「週刊新刊全点案内」2321号の発行日です。
掲載件数は1332件でした。

*こんな本がありました*
キボリアル

キボリノコンノ(著)
玄光社(2023.8)

木彫りアーティスト・キボリノコンノさんの作品集です。
図書を手に取り、表紙のパンにのったチーズのとろけ具合に驚きながら、「...ん?パンを持ってる手もまさか木彫りじゃないよね?!」と思わずまじまじと眺めてしまいました。

身近なお菓子や食材を再現した木彫り作品が、制作過程写真とともに多数紹介されています。
「オレオクッキー」の細かい模様や、「うなぎパイ」にまぶされたお砂糖の細かさ、「シフォンケーキ」のふわふわ感、「味付け海苔」1枚1枚のパリパリ感など、様々な質感が忠実に再現されており、全部同じ木から出来ているとはとても思えないリアルさです。

個人的に特にすごいなと思ったのは「溶けかけの氷」。滑らかで、触れたら冷たさまで感じられそうな透明感!
木を彫る技術はもちろんですが、そこに色を付ける塗装のテクニックにも脱帽です。

2023年8月23日

きょうのデータ部☆(8/23)

夏季休業が終わり、データ部にもいつもの雰囲気が戻ってきました。
休憩もしつつ、もくもくと目録を作ります。

こーひー.jpg

2023年8月22日

アフガニスタンの蝶々

本日は「週刊新刊全点案内」2320号の発行日です。
掲載件数は810件でした。
 
*こんな本がありました*
蝶と人と 美しかったアフガニスタン

尾本惠市(著)
朝日新聞出版(2023.8)

 
アフガニスタンといえば、何を思い浮かべるでしょうか。
ニュースで耳にする言葉であったり、世界史や地理で学ぶ名称であったり...
あるいは中村哲さんのことを思い浮かべたり。
 
実は中村さんとの共通点も多い、著者・人類学者の尾本さん。
彼はアフガニスタンの山脈:ヒンドゥークシの蝶に魅せられたひとりであり、
本書いわく、かつてのアフガニスタンは雄大な山々に囲まれた、蝶が飛び交う自然ゆたかな地であったとのこと。

本をパラパラめくると、きれいな蝶々のカラーページがずらり!
ついカラーページを眺めるだけでも楽しくなってしまいますが、
本文には幻の高山蝶パルナシウス・アウトクラトールや新種の蝶に関するエピソードのほか、現地の方々と冗談を交わすシーンなどの温かみのある人間模様が描かれています。
 
アフガニスタンにこんな一面があったなんて!
知らなかった世界を垣間見ることができる、これだから読書は楽しいのよね、などと本の持つパワーをしみじみと感じつつ。
いままでは縁遠く気付くことの難しかった、アフガニスタンの魅力を知ることができる1冊です。

2023年8月24日

夏の思い出

8月の雑記テーマは「合宿」。
大学時代、調査合宿に行ったことがあります。
私の専攻していた学問分野はフィールドワークを行うこともあるものだったため、
教授、ゼミ生、大学院生という面々でとある地域へ調査に入ったのでした。
季節は夏。行き先は海沿いの集落。
電車内に蝉が飛び込んでくるというプチ事件で盛り上がりつつ、
電車やバスを乗り継いで目的地へ。
途中の駅で昼食をとって、半日くらいかけて向かいました。
バスで山間を長く走るため、
酔うのが心配だった私は酔い止めを荷物にしっかり追加しましたが
実際は友人たちとの旅という非日常感から
(少なくとも行きは)元気だったので杞憂に終わりました。

現地に着いたあとは、昼間は調査、夜はゼミで通常行っている授業の続きでした。
これがなかなかにハードでした...。
肉体労働として特別過酷だったわけではありませんが
一日慣れないことをしたためか、夜には疲れであまり頭が回らなかった記憶があります。

もちろんメインは調査でしたが、みんなで集まってカードゲームをしたり、
砂浜に出て花火をしたりという時間もありました。

今でも当時のメンバーと会うと話題になる合宿。
確かに大変だったのですが
総括すると「楽しかったよね」となる学生時代の思い出です。

2023年8月21日

拓本と陰刻本 ― 和漢古書の法帖の書誌(その2)

こんにちは。AS 伊藤です。主に和漢古書を担当しています。

書道手本(法帖)について、前回はその物理的な形態について見てきましたが、今回は印刷形態について述べたいと思います。

前回、石碑や摩崖について触れましたが、そうしたものはそれ自体一つの媒体(メディア)であり、そのものの堅牢性・耐久性という点では、紙などよりむしろはるかに強いという側面があります。実際、紀元前の西周時代の石鼓文(せっこぶん)や秦始皇帝の瑯琊臺(ろうやだい)刻石・泰山(たいざん)刻石といったものが現在まで伝わっています。
漢代に儒教が国教化されると、テキストの異同を正し、オフィシャルに定められた本文を恒久的に伝えるために、五経をはじめとする経典を石碑に刻した石経(せっけい)が作製されるようになりました。後漢末の熹平石経(きへいせっけい)や三国時代の正始石経(せいしせっけい)といったものは断片しか残っていませんが、現代までほぼ完全なかたちで伝えられているものとしては、唐代の開成2年(837)にみやこ・長安(現・西安)に建てられた開成石経(かいせいせっけい)があり、そのテキストがスタンダードなものとして位置づけられるとともに、刻された楷書の文字も一つの規範としての地位を獲得しています。

しかしながら、こうした石刻資料は、その場に行かないと目にすることができないという一大弱点があり、紙の発明後、石碑や摩崖をそのまま紙に写し取って世に広めることが広く行われました。この写し取る技法の代表的なものが「拓本」です。
具体的な方法としては、濡らした紙を、拓本をとる対象に密着させて貼り付け、表から墨を含ませた「たんぽ」をポンポンと打ちつけて紙面全体に墨を付け、乾いてくるのを待って剥がす「湿拓」が用いられます。紙の裏を対象の面全体に貼り付けますので、オリジナルを原寸のまま写し取ることができ、出来上がりとしては地が墨色となり、刻まれている文字の部分は白抜きとなります。しばしば誤解されることがありますが、対象そのものに墨を塗ってそれに紙をあてて写し取る「魚拓」の方法は、左右が反転しますので、石碑などの拓本をとるのに用いられることはありません。

こうして作られた拓本は、原物のとおりのものを、紙という扱いやすいどこへでも手軽に運べるメディアへと媒体変換したものであり、正確な経書の流伝や書道の発展に大きく貢献したものと言えます。ただその製作はそれなりに手間のかかるものであり、雨天や強風の際には行えませんし、現場で一度に作れるのは多くとも数枚というところで、物理的な点ではやはり限界がありました。
そこで拓本をさらに版木や石材に彫り直して「版」を作る「模刻」が行われるようになりました。この場合での一般的な印刷方法は、通常の木版印刷と同様、版のほうに墨を塗って、紙の表を版に貼り付け、上から「ばれん」でこすって摺刷するもので、碑のある現場に出向く必要はありませんし、一度に数十部から数百部を作成することができます。ただ、ふつうの木版印刷では文字の周りの地の部分を彫って字を黒く刷る「陽刻」になるのに対し、書道手本の場合は、できるだけ拓本のようなフンイキを出すべく、拓本と同様に字の部分を彫って製作しているものも多いです。

こうして地が黒く文字が白抜きになっているものについては「陰刻本」と注記しておいたほうがよいと思いますが、とくに版の材料として石を使用している場合は拓本との区別がつけにくいこともあります。
拓本と陰刻本の見分け方としては、・拓本は黒地のところがべったりと平板な感じで、白抜きのところが立体的にへこんでいる ・陰刻本は「ばれん」でこするのでとくに裏面に線状の摺り跡が残ることが多い といったポイントがあり、見慣れてくるとある程度は区別がつけられるようになります。
といって、近代のコロタイプ印刷の精巧な複製となるとそうした特徴もありませんが、それらはそもそも現代書なので和漢古書としては記録されません。いずれにしろ、既存のオンラインの書誌の情報は慎重に受け取っておいたほうがよいように思います。

2023年8月 9日

きょうのデータ部☆(8/9)

みなさまのお住いの地域は台風の影響等は大丈夫でしょうか?
本社近くでも先刻、大きな雷が!台風の気配を感じます。

夏のお休みと重なってしまう方もいらっしゃるかもしれません。
どうか、ご安全に!

曇天と本社ビルの背中(?)をそえて...。

せなか.jpg


2023年8月10日

文化系の中の体育会系

今月の雑記のテーマは「合宿」。
スポーツとは縁のない人生を歩んできましたが、中学時代には吹奏楽部に所属していたので、合宿を経験しています。夏休み中に吹奏楽コンクールが始まるため、それに向けての合宿が毎年行われていたのでした。
一応、中学校の中では強豪校と言われていたので、目指すはもちろん全国大会、普門館!合宿するのはある意味当然だと思っていました。
しかし今考えてみると、全然当たり前じゃない!
まずは避暑地に合宿所を借りて、部員全員が移動するためのバスと、楽器を運ぶためのトラックなども必要です。顧問と副顧問の他に、音大出身の講師の先生も参加して、連日指導してくれていました。合宿所での食事の準備はだれがやってくれていたのか忘れてしまいましたが、サポートのために保護者の方も何名が付き添ってくれていました。
たかが中学生の部活動のために、これほどの手間をかけてもらっていたと思うと、今更ですが頭が下がります。おかげさまで、全員で一つの目標に向かって寝食を共にするという、人生においてかけがえのない経験をすることができました。
ちなみに、コンクールの結果は目指していた全国大会出場は果たしたものの、なんとタイムオーバーで失格でした...。
これも含めて忘れられない思い出です。

明日8/11(金)よりデータ部は夏季休業に入るため、ブログの更新をお休みさせていただきます。
再開は8/21(月)です。よろしくお願いいたします。

2023年8月 8日

美しいワニたち

8/8は週刊新刊全点案内2319号の発行日です。
掲載件数は1009件でした。

世界で一番美しいワニの図鑑

福田雄介(著)
エクスナレッジ
(2023.8)

入荷した本の中でこれを見つけて「お!!」とテンションが上がりました。
ワニが好きです。
こちらの本は「ワニの図鑑」というタイトルではありますが、特にオーストラリアに棲む2種類のワニ(イリエワニとジョンストンワニ)にフォーカスし、その美しい姿を写真や図解を通じて読者に知ってもらう、という趣旨のものです。
ワニはクロコダイル科、アリゲーター科、ガビアル科の3つに分類されますが、今回紹介されているイリエワニとジョンストンワニはどちらもクロコダイル科のワニになります。個人的には顔が可愛らしいアリゲーター科が好きですが、今回紹介されているクロコダイル科のイリエワニはワニの中でも最大級の大きさまで成長する種で、オスは6メートル以上に育つ場合も。いかつくてかっこいいです。

以前アメリカ・フロリダ州に旅行に行った際に、道端の池にたくさんいる野生のワニを家族で見ていたら大きな個体がこちらに向かって泳いできて、慌てて車に戻る、ということがありました。
どれだけ好きでも怖いものは怖いですね。
本書には「ぜひこの本を野生ワニ探訪の第一歩に!」とありますが、たぶん野生ワニの探訪は結構危ないのでご注意ください...。

2023年8月 7日

整本と剪装本 ― 和漢古書の法帖の書誌(その1)

こんにちは。AS 伊藤です。主に和漢古書を担当しています。

和漢古書の目録作成において、対象に書道手本が含まれていることも時々あります。この書道手本については、他の和漢古書にはあまりない特徴と注意点がありますので、すこし整理しておきたいと思います。

古今の名筆・大家の手跡を紙に摺刷し、本のかたちに仕立てた書道手本のことを「法帖(ほうじょう)」と呼びます。「法」はこの場合「のっとる」と訓じ、規範とすべき手本という意味です。
こうした書道手本としては、もちろん通常の冊子体であるものもふつうに存在しますが、典型的な形態としては、折本折帖(片面折帖仕立)であることが多いです。実際、「法帖仕立」という呼称は折本もしくは折帖の別称として使われることは以前見ました。
「折本」「折帖」は、「冊」ではなく「帖」で数え、形態にかんする注記の位置に「折本」「折帖」と記述します。折本か折帖かで意味合いや取り扱い方が違うといったことはありませんが、縦の長さが横の長さの2倍以上ある縦長本であることも多く、そうしたものは大きさを縦×横で記録します。また、通常の図書にあまり見られないものとして、表紙が厚紙ではなく木の板で作られているものもあります。書物自体の堅牢性が要求されるがゆえのものですが、こうしたものは「板表紙」と注記しておいたほうがよいでしょう。

「折本」「折帖」は、いずれにしろ本のかたちに仕立てたものですが、手本となるオリジナルは、個人の書翰だったり、石碑の拓本だったりします。基本的にそうしたものを石や木に彫り直し、そうして作った版をもとに印刷しているわけですが、碑文の場合は拓本をとったそのものを、適宜の字数で改行したかたちに切り貼りして本にしているものもあります。
もちろん、そうした切り貼りをせず、継ぎ合わせた紙に碑文全体を摺りとった一枚物もあり、そのような碑文や摩崖(まがい)文(自然の崖などに文字を彫り付けたもの)を拓本にとったものを一枚物として仕立てたものを、「全套本(ぜんとうぼん)」あるいは「整紙本(せいしぼん)」「整本(せいほん)」(現代中国語で「整」は「全部」の意味)と呼びます。こうしたものについては、「一枚物」と注記するよりは、「全套本」といったタームを使ったほうがよいかもしれません。なお、これに対し、切り貼りして折本や冊子に仕立てたものについては「剪装本(せんそうぼん)」と言い方をします。

こうした整本や剪装本のおおもとである石碑は、基本的に形式が決まっており、碑の名称を刻した上部(碑首(ひしゅ))・本文を記した中央部(碑身(ひしん))・全体を支える台座(碑座(ひざ))の3つの部分から成ります。碑首は半円や三角の形になっているものもあり、中央に「穿(せん)」と呼ばれる丸い穴があけられているものもあります。この碑首に記された題目を「題額(だいがく)」あるいは「碑額(ひがく)」と言い、また多くの場合篆書で刻されているので「篆額(てんがく)」とも言います。もちろん、本文の冒頭にタイトルが書かれている場合もありますが、この題額の名称が最も正式なタイトルになるというケースも少なくありません。ですが拓本(とくに剪装本)の場合、碑身の本文だけを写し取ったものも多く、この碑首や、しばしば建立の経緯などが書かれている碑の裏側(碑陰(ひいん))や側面(碑側(ひそく))が略されていることもけっこうあります。

なお、「碣(けつ)」というのも基本的に碑と同じものですが、長尾雨山氏の「碑帖概論」という講演(『中國書畫話』(筑摩書房1965)所収)によれば、ほんらいは「碑」は五品という官級より上の人、「碣」はそれより下の人の功徳を称えたもので、石碑の形自体もすこし違うのだそうです。ただ、後代にはそのあたりの区分は厳密ではなくなり、「神道碑(しんとうひ)」(墓所の通り道の脇の碑)といっても無位無官の人のものだったりすることもふつうにあるということです。

2023年8月 3日

最後の夏合宿:ちいさな発表会

8月の雑記テーマは「合宿」です。

高校時代に所属していた管弦楽部での最後の夏合宿が今でも思い出に残っています。
部では年に数回、演奏会を開催していたのですが、その時は秋の文化祭に向けた発表曲の練習をしていました。
外部から講師の先生も呼び、自主練→パート練→合奏をする流れだったと思います。
とはいえ、運動部とは違って人数も20人程度の小規模団体で比較的緩めの部活だったので、がちがちのスケジュール感というよりは自由に楽しく練習させてもらえる環境でした。

そんな合宿の最中、後輩1名とペアを組んで全員の前で一曲を演奏し、顧問と講師の先生が優勝を決める発表会が行われました。
順番はくじ引きだったのですが、なんとトップバッターを引いてしまい...。

当時、私はフルートを担当しており、バイオリン担当の子と組んで、短時間で発表に向けた練習を行いました。
ひとりひとりが注目を浴びるというのはあまり無い機会で、トップバッターのプレッシャーもあってかなり緊張しましたが、組んだ後輩は常に笑顔で落ち着きもあり、先輩についていきます!と慕ってくれて、発表中に目が合った時も楽しそうな様子。
思わずはっとさせられ、純粋にふたりで曲を楽しもうという気持ちでやり切ることができました。

全員の演奏が終了し、結果はなんと優勝。
息が合っていてよかったと先生方に評価してもらったことに加えてペアの後輩と一緒に優勝できたことが嬉しくて、涙を流したのを覚えています。

合宿の終わりには、久石譲の「Summer」を全員で演奏し、夏の終わりを感じながらこれが最後の合宿なんだとしみじみ感じていました。青春だったなぁ。

ちなみにペアで組んだ後輩とは合宿以降さらに仲良くなり、大人になった今でもお付き合いがあります。
先日は、その子の結婚式(お相手も同じ管弦楽部!)に呼んでもらったりもして、この夏合宿は自分にとって印象的なイベントだったなと思っています。

2023年8月 2日

きょうのデータ部☆(8/2)

東京は昨日急な雷雨が。
おかげかすこしばかり涼しい時間もありましたが、
束の間の喜びだったみたいです。

熱中症にお気をつけてお過ごしください。

あめ.jpg

2023年8月 1日

自分たちの星を知る

今日は週刊新刊全点案内2318号の発行日です。
掲載件数は976件でした。
今月の表紙はこちら。

p20230801.jpg

半分に切ったピーマンです。
中身が空っぽの野菜の代表格!
一年中お店に出ているけれど、ハウスで育てられたのとは違って
夏の畑で育ったピーマンは、肉厚で味も濃厚です。
新鮮で瑞々しい感じと、粒粒でプチプチの種のイメージをプラス!!

(Juri)

*こんな本がありました*
EARTH 図鑑地球科学の世界

スミソニアン協会(監修),三河内 岳(監修)
東京書籍(2023.8)

私たちが住む地球について、宇宙のなかでの位置づけから、大地や海洋・気象、生命に至るまで様々な側面を豊富な写真とともに解説する1冊です。
美しく鮮やかなカラー写真たちが、地球のもつエネルギーやダイナミックさをありありと伝えています。

まさに、地球は生きている! と感じさせてくれます。

2023年8月 4日

同姓同名を区別する~典拠のはなし~

「個人名典拠ファイル入門」の第3回です。今回から個人名典拠ファイルの役割について解説していきます。
まずは復習から。
・本を書いた人(=著者)
・その本のテーマとなっている人(=被伝者)

そういった人を対象とする、人名を見出しとしたファイル(=個人名典拠ファイル)があります。
このファイルにその人が書いた本1冊1冊が結びつけられています。
このファイルは、ID+名前+ヨミをセットにして見出しとしています。

ここで標題に戻ります。
名前の漢字形とカタカナ形(ヨミ)が完全に一致する人、つまり同姓同名の人が出てきた場合、個人名典拠ファイル上ではどうしているのでしょうか。
作業としては、まずこの同姓同名の人が本当に別人なのか、同一人ではないのか、ということを確認。著書のジャンルや専門分野、職業、活動している時期や地域などなど、情報を見比べて判断します。
そして別人でOKと確認できたら、個人名典拠ファイルを新たに作成します。
その際、最初の人のIDとは異なるIDを付与することで、同姓同名を区別しています。
識別に役立つように活動分野や職業、生没年などの情報も見出しに一緒に記録します。
同姓同名の3人の山田太郎さんがいるとすると、イメージはこんな感じ。(※実例ではありません)

1人目
ID:012345-0000
山田/太郎
ヤマダ,タロウ


2人目
ID:012346-0000
山田/太郎(野球)
ヤマダ,タロウ


3人目
ID:012347-0000 
山田/太郎(~1923)
ヤマダ,タロウ


それぞれのファイルには、その人が書いた本が結びつけられていると、先に説明しました。
野球の本を書いた山田太郎さんの本を探したいとき、山田/太郎(野球)の個人名典拠ファイルから、そこに結び付けられた本をみると、同姓同名で別人の山田太郎さんの著書を除いたかたちでみることができます。より精度の高い検索ができますので、ぜひこの個人名典拠ファイルをご活用ください。

2024年4月

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