前回まで、和漢古書の出版事項についてずっと述べてきましたが、書写資料の場合についていくつか補足しておくべきことがありますので、最後に書いておきたいと思います。
現行のNCRでは、書写資料の場合、出版事項を記録する位置に「製作事項」として書写地・書写者・書写年を記録することになっています。ある人が書いたものを別の人が取り集めて製本した場合なども無くはないので、厳密に言えば書写者と製作者とは異なるのですが、そうしたことが判明することはきわめてすくないので、書写者・書写年を記録するということで実際上はまず問題ありません。
書写者が判明した場合、製作者として書写者を記録しますが、このとき著者自筆の場合は「某々 [自筆]」と、別人による転写の場合は「某々 [写]」と記録します。昨年、「写本」は転写した本ではなく「書いた本」のことだということを書きましたが、ここでの「写」は常識どおり(?)「転写」の意味になります。
情報源としては、NCR87R3の3.0.3.2のウ)を見ると「刊記,奥付」の代わりに「奥書」というのが入っています。「奥」というのは「書物のいちばん最後のところ」の意味で、「奥書(おくがき)」は要するに「巻末に書かれている文章」のことです(ちなみに、これに対応する「巻頭に書かれている文章」は「端書(はしがき)」になります)。刊行物で使われる「奥付」とは、語源は共通ですが、やはり別ものですので、きっちり使い分けましょう。写本をもとに彫り起こしたという場合を除き、刊本では「奥書」「端書」は使わないほうがよいですし、逆にもちろん「刊記」「奥付」は写本では使いません。
この「奥書」は、「跋」や「識語」と重なり合うところもありますが、やはり概念としての違いがあり、基本的に「書いてきた(あるいは書き写してきた)最後に記す文章」のことです。「跋」は「巻末に本編と別につけた文章」で、刊行物でも書写資料でも存在します。「識語」は「できあがっている書物に書き加えた文章」で、巻末以外に記している場合も含みます。
もっとも、奥書は著者あるいは書写者だけのものとは限らず、広くは校合(きょうごう) ・伝領(でんりょう)なども含んで「何らかのかたちでかかわってきた者」が巻末に記したものとも言え、そうなると「巻末にある識語」と置き換え可能ともなってきます。いずれにしろ、どの場合も著者自身によるものか否かは問いません。
多くの奥書には、著者自身や転写者、あるいはそれ以外のひとによって、著述・転写の経緯が書いてありますので、そこから書写者・書写年を採用して記録することができます。よく読むと「写した」でなく「写させた」という場合もあるので注意してください。
なお、こうした内容は扉や表紙などに書かれていることもしばしばありますが、「奥書」は「書かれてきた最後」にあることが要件なので(むろん多少の付加がつづいていることは容認されます)、そうしたものは奥書とは言わず、「扉に「~」とあり」のように注記します。
奥書を扱う上で問題なのは、それが手もとの本にオリジナルのものとしてつけられたものなのか、もともと底本にあったものを写したものなのか、一見したところでは区別がつけにくいことが多いことです。本文と同筆か他筆かは、どちらのケースでもそれぞれありうることですから、それ自体では何とも言えません。
書写奥書に対してもともとあったものを「元奥書」(もとおくがき)と言いますが、『日本古典籍書誌学辞典』によれば、冒頭に「本云」と底本を明示している意であるから「本奥書」(ほんおくがき)と称すべきとされています。もっとも「本云」は校合した別の一本にあったことを示す場合もあり、また書写奥書をさらに写した場合にその書写奥書も元奥書と呼んでよいのかやや疑問もあるので、とりあえずは全部「奥書」としておいてよいでしょう(写したものであることを示したければ、それらは「原奥書」とでもしておけばよいかと思います)。
写しである場合の証拠としては、もともと印が捺されていたり花押があったりしたところが「印」とか「判」とかの文字になっていれば、確実に写しと言えます。逆に印や花押があればそのときのオリジナルの奥書である可能性は高いですが、花押はそっくり真似て書くことなどもありますから、決定的ではありません。行を飛ばすなどの明らかな書き間違いや誤字がある場合も、写しと見て間違いないでしょう。
また、別の本でまったく同じ文章があった場合、手もとの本が祖本であることも無くはないとは言え、やはり写しである可能性が高いと言えますので、そうした意味で、奥書はできるだけ転記しておくことが世のため人のためになるとは言えます(長文だったりいくつもあったりするとたいへんですが)。
奥書の内容は、写本の著述・書写・校訂・伝来等の諸事情を伝える貴重なもので、ごくごく簡潔なものも多いですが、詳細に経緯を記したりいろいろ考証を載せたりしてくれているケースもすくなくありません。ありがちな文面としては「この本は貴重な秘本であるから家宝として子孫のみに伝え、決して他人に見せてはならない」などといったものがあります(いま、他人に見られてしまっているわけですが)。
書写奥書では「底本には何だかよく分からないところが多いがとりあえずそのまま写した。後人の訂正を俟(ま)つ」とか「時間がなく急いで書き写したので魯魚亥豕(ろぎょ・がいし)といった文字の誤りがあるかと思う。お察しください」とか言った文面が多いです。なかには「年をとって目はかすみ手はふるえ甚だ読みにくいと思うが何とぞおゆるしを」といった哀れっぽいものも目にします。
また、「これは数十年前自分が若いとき写したもので、当時を懐かしく思い出す」とか「底本を貸してくれた先輩は先年亡くなられた。うたた感慨に堪えない」とか、生身の人間の思いが感じられる文面も時々目にしますし、あるいは「異国船渡来で世の中何かと騒がしいが」云々とあって、リアルタイムの雰囲気が伝わってくるようなものもあります。こうした奥書や識語の文章を読んでいくと、百年以上前の昔のひとたちの息づかいが急に生き生きと身近に感じられてくるようです。
5月から和装本について書いてきましたが、またいったんしばらくお休みします。いずれまた書かせていただくつもりですので、よろしくお願いします。