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電車通りの家

生家は電車通りの家だった。今住んでいる家も地図によれば隣の家の下を地下鉄が通っているので電車通りの家といえるかもしれない。それはさておき生家の話をしたい。こちらの電車通りは普段使っていた言葉だった。通りを都電が走っていたから、そう呼ばれていた。表通りなんて言い方もあったが。東京オリンピックで聖火リレーも通った。ちなみに札幌スタートのコースだったらしい。都電とは他の街なら市電と呼ばれる路面電車であり、かつては、東京区部に多数の路線があった。

我が家の前のそれは22番線(正式には22系統)と呼ばれ港区新橋と荒川区南千住を結んでいた。我が家は南千住に近かったし新橋に行くなら地下鉄(東京メトロ)銀座線を利用したので22番線を終点まで乗った記憶はない。いくら自動車交通量が少なかったとはいえ、地下鉄より時間が掛かった。ただし新橋に近い浜離宮庭園なら小学校の遠足で行った。貸し切りにすれば路線に関係なく軌道があるところなら行けたと記憶している。東京区内を縦横に走っていて平面交差だからこそだろう。

逆の南千住方面はそもそもあまり乗った記憶がない。歩いて行けたからだ。よく蒸気機関車を見に行っていたような記憶がある。操車場の入れ替え作業に使用されていた。都電の終点南千住停留所と国鉄南千住駅の間にこの貨物列車の操車場の引き込み線の線路が何本もあり大踏切と呼ばれた。入れ替え作業で踏切が閉まると歩行者は跨線橋を通るのだが、跨線橋の下を蒸気機関車が通るのを上から眺めたり、踏切から大きな車輪が通過するのを眺めて飽きなかった。1960年代の話である。

もっとも乗るほうは1970年代になってから。大学の旅行研究会に入ってからだった。まだ日本中に蒸気機関車が残っていたのだ。小海線が有名だったが、他にも乗った記憶がある。只見線もそのひとつ。この線を乗ることを目的に一人旅した思い出がある。只見線は小出-会津若松間の名称だが現在、途中、不通区間があり全線通しての乗車は不可能である。そもそも全通したのが1971年でその秋に乗車したのではなかったかと思う。全線を運行するのは日に2本だけだったように思う。上越線の夜行で暗いうちの小出駅を出発した只見線は大げさにいうと全線トンネルか橋梁かという、つまり陸地を見た記憶がない路線だった。トンネルを抜けると朝日が差し込み只見川を渡る橋梁にでる。向こうには最高の紅葉に彩られた山々。6時間かけて135kmを走破したのが蒸気機関車だったかどうか、なにしろ、蒸気機関車は子どもの頃にさんざん見ていたのだった。

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