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誰の解釈?(和装本の責任表示(8))~ASで作成するデータについて~

前回、巻頭以外の見返しや奥付などに表記がある責任表示について書いてみましたが、しかしながら目録をとる場合、これらのようにはっきり書かれているものを記録していればそれで済むわけではありません。著作に関与した人が、上にあげたような場所に明記されていないことが、和漢古書の場合は非常に多いのです。
ではどこを見なければならないかというと、序文や跋文(ばつぶん)です。これらを書いている人が、著者・編纂者・校訂者・訓点者などであることがしばしばあります。
もちろん、序文や跋文を書いただけで本文にまったく関与していないという場合も多いですので、あくまで本文に対して何らかの関与をした人を責任表示として記録します。

注意しなければならないのは、序文や跋文の先頭や末尾に「~著」「~撰」とあっても、それは序文・跋文そのものに対する役割を示しているのであって、本文に対する役割を示しているのではない、ということです。それらをそのまま役割表示として記録しているオンラインの書誌を見かけることが結構あるのですが、それは基本的にみな間違いで、原則としては、タイトルに対応する役割表示としてはすべて補記で記録すべきものです。
すなわち、校訂者が跋文を書いていて「何某著」と署名していても、本文の著作者ではありませんから、「何某〔校訂〕」と記録することになりますし、同様に、かりに著者の自序に「何某撰」とあったとしても、その「撰」はあくまでその序文についての役割表示ですから、著作そのものについては「何某〔撰〕」と記録しなければなりません。

序跋の作者が本文に対してどういう役割を果たしているのかは、やはり序文・跋文そのものをちゃんと読み解く必要があります。文中に「書肆の求めに応じて句読(くとう)を施した」云々かんぬんと書かれていればその人が訓点者だとわかりますが、よく読んでみると「書肆の求めに応じて弟子の誰それに句読を施させた」と書いているような場合もあり、そうなるとこの序跋を書いた人ではなく「弟子の誰それ」が訓点者ということになるわけです。
ということで、序跋の中身をきちんと読むために、古文漢文の知識経験が、ある程度以上はやはり必要になります。

いずれにせよ、このように序文中や跋文中にしか出てこない人たちを、必要に応じて、役割表示を補って記録していなければ、和漢古書の書誌としてじゅうぶんなものとは言えません。たとえば日本で出版された漢籍で、訓点者が巻頭にはなく序跋にしか出てこないことなどざらですが、巻頭の表記だけからたとえば「『詩經』 朱熹集傳」とだけ記述し訓点者を記録していないのは、あたかもクラシックの音楽CDの目録で「『運命』 ベートーベン作曲」とだけ書いて指揮者が誰なのか書いていないようなものです。『運命』といえばベートーベン、『詩經集註』といえば朱熹なのはわかりきった話なので、カラヤンの指揮なのかアーノンクールの指揮なのか、松永昌易の首書(かしらがき)なのか松下見林の校正なのか、そこが肝腎なわけです。
もっとも、和漢古書の場合は、実際の訓点者が不明という、「覆面指揮者による演奏」のようなこともしょっちゅうではあるのですが。

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