こんにちは。データ部AS・伊藤です。主に和漢古書を担当しています。
前回まで「和古書」と「漢籍」、「和本」と「唐本」等の区別について書いてきましたが、今回は具体的に古い時代の図書を手に取った場合、ちょっと迷われるであろう種々のポイントについて書いてみます。
まず最初に、日本人が書いた日本漢文の図書は日本語の図書でしょうか、中国語の図書でしょうか? これについては、書いた本人は中国語のつもりだったかもしれませんが、残念ながら(?)日本語のものとして扱います。『日本書紀』も『懐風藻』も『御堂関白記』も『日本外史』も、原文は基本的にすべて漢文ですが、さすがにこれらを漢籍とするわけにはいきませんね。
つぎに、中国人が書いた中国語の本すなわち漢籍に、送り仮名や返り点をつけたものは日本語の図書でしょうか、中国語の図書でしょうか? これは、原則として「本文がもとの漢籍のままのもの」は、漢籍として扱います。これに対し、本文が書き下し文になっているなど「本文がもとの漢籍のまま」ではない場合は、これは中国語から翻訳した日本語の図書として扱います。
では、漢籍に日本人が注釈をつけたものなどはどうでしょうか。これも原則として、頭注をつけただけのような「本文がもとの漢籍のままのもの」は、漢籍として扱ったほうがいいと思われます。ただし、場合によっては、どう見ても本文に対する注釈というにとどまらず、むしろ注釈のほうがメインといったほうがいいような場合もあり、そうなるとそれは注釈者の著作ということで、国書ということにしたほうがよいこともありえます。このあたりの判断はひとによって多少揺れそうですね。
また、本文内容はすべて中国人の著作ですが、日本人がタイトルをつけたり抜粋したり編纂したりしたものはどうでしょう。これらは「タイトルの言語コード」と「本文の言語コード」とが違ってくることになりそうですが、漢籍か国書か、なかなか微妙なものがあります。実際これらのものは『全國漢籍データベース』『日本古典籍総合目録データベース』のどっちにも載っていたりしています。
上にあげたような日本人による漢籍の注釈書や編纂物、あるいは翻訳や補遺などは、何かしら基づく漢籍があるものということで、「準漢籍」というくくりをすることがあります。「準漢籍」というものの範囲は人によって多少違っていますが、見た目の点でも分類体系の点でも、漢籍と一緒に取り扱ったほうが何かと都合がよかったりします。ただ、「準漢籍」は、両者の中間的存在ではありますが、基本的にあくまで「国書」(和古書)の一種なのであって、「漢籍」なのではない、ということは強く意識しておかなければなりません。
ちなみに、「準漢籍」は「和古書」と「漢籍」の中間的存在ですが、「和本」と「唐本」とのあいだにもそういったものがあります。日本人の漢詩文集などで、何といいますか「本格派」感を出すために、わざと中国風のやや縦長のかたちにした、唐本ふうの和本というのもあり、表紙とかもそれらしいシンプルな雰囲気にして、中身も名前を修姓して名乗ったりしていると、ちょっと勘違いしてしまうこともありそうです(なお「唐本仕立」にはこれと別の意味(洒落本(しゃれぼん)の別称)もあります)。
和漢古書の中には、朝鮮半島の人の著作や彼の地の出版物があることもあります。これらについては、「国書」「漢籍」に対応するタームとしては「朝鮮書」もしくは「韓籍」、「和本」「唐本」に対応するタームとしては「韓本」もしくは「朝鮮本」という言い方があります。見た目には唐本の漢籍のようであっても(慣れてくると朝鮮本の特徴もつかめてきますが)、出版国コードや言語コード、ヨミなども、当然しかるべきものを入れなければなりません。
なお、「漢籍」は漢文すなわち文語文の中国語(文言(ぶんげん))で書かれたものが大半なのですが、口語文(白話(はくわ))で書かれたものももちろん含めます。伝統中国の価値観で言えば、図書と言うものは教養人が由緒正しい文言で書きかつ読むべきもので、白話で書かれた『西遊記』や『水滸伝』などといったようなものは、およそ表に出てくるべきものではなく、確かに「漢籍」と言ったときのちょっとモノモノしい感じからすると、こうしたものは軽い違和感が無くはないのですが、それでもやはり漢籍に含まれます。
ちなみにこうした『三国志演義』や『紅楼夢』など長編の白話の小説は、「章回小説」と呼ばれ、一定の形式があります。もともと講談(語り物)に由来するとされるのですが、章節が「回」という単位で分かたれ、各回の最後は「さてお次はどうなるか、つづきは次回で(欲知後事、請聴下回分解)」といった決まり文句で結ばれます。で、お気づきのとおり、今回の「和装」「和本」「和書」の話は、それにならって書いてみました。といったところで、今回の話題についてはひとまず大団円とさせていただきます。