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正義の見方 ― 和漢古書の書名の漢字:「疏」

こんにちは。AS 伊藤です。主に和漢古書を担当しています。

前々回、「注」について見ましたが、その「注」にさらに注釈をつける場合もあります。こうした「注釈の注釈」のことを「疏」と言います。「琵琶湖疏水」とかの「疏」の字ですが、『説文』には「疏、通也」とあり、地に注がれた水を、地をきりひらいて通していく、といったイメージになります。
前回まで見てきたように、上古の聖人による「経」に対して、春秋戦国から漢代にかけて賢人によってつけられた注釈が「伝」、漢代以降につけられた注釈が「注」ということで、それにまたつけられた「疏」は、だいたい南北朝時代以降に作られています。とくにこの時代(5~6世紀)前後に作られた、儒教・仏教・道教の経典の文義・語義に対する「疏」は「義疏(ぎそ)」と称され、魏の何晏(か・あん)の『論語集解(ろんごしっかい)』への疏である皇侃(おう・がん)の『論語義疏(ろんごぎそ)』や、日本に孤本の残巻を存する『孝経述議(こうきょうじゅつぎ)』などが代表的です。聖徳太子の撰と伝えられる『法華義疏(ほっけぎしょ)』もそうしたひとつということになります。

つづく唐の時代になると、二代太宗の命により、孔子三十二世の子孫という孔穎達(こう・えいたつ(読みぐせで「くようだつ」とも))によって、南北朝時代の儒教の義疏を集大成した『五経正義』が編纂されました。「正義」というのはjusticeではなく、「義(意味)」を正す」という書名です。この『五経正義』は、宋代には経・注と合刻されて『十三経注疏』に収録され、経伝の注釈のスタンダートとしての位置を占めていますが、逆にそれがためにそれ以外の義疏の多くが亡佚したという副作用も生じています。
もちろん、それ以後も経書の注釈というのはとぎれずに作られつづけ、とくに清朝の考証学者によって『尚書今古文注疏』(孫星衍)『周礼正義』(孫詒譲)『論語正義』(劉宝楠)『孝経鄭注疏』(皮錫瑞)『孟子正義』(焦循)『爾雅義疏』(郝懿行)といったすぐれた注疏の書物が数多く書かれています。

「正義」のように「ただす」という動詞の意味の「正」を用いたタイトルとしては、「~正誤」というものがあります。これは「正誤表」のように正しいのと誤っているのとを並べているのではなく、あくまで「誤りを正した」のが「正誤」です。「正譌(せいか)」「正訛(せいか)」といったのも同様です。「正」の字のかわりに、「訂誤」「刊誤」「校譌」といった語を用いている書物もあり、これらの一文字目はみな「校正する」という動詞句であるわけですね。
「~糾謬(きゅうびゅう)」「~匡謬(きょうびゅう)」といったタイトルのものもあります。「誤謬をただした」という意味で、単なる文字校正をしているだけのものもありますが、それ以前の論述の内容を誤りだと決めつけてしりぞけているという、かなりきびしいニュアンスが感じられる場合もあります。
これらのタームを用いたものは和書でももちろんあり、香川景樹の『古今和歌集正義』、文雄(もんのう)の『三音正譌(さんおんせいか)』、太宰春台の『倭楷正訛(わかいせいか)』、日尾省斎の『詩格刊誤(しかくかんご)』、清水浜臣の『歌辞要解糾謬(かじようかいきゅうびゅう)』(伴資規(ばん・すけのり) の『歌辞要解』を補訂したもの)といったタイトルの書物が作られています。

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