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和漢古書あれこれ ― 地方書(じかたしょ)

こんにちは。AS 伊藤です。主に和漢古書を担当しています。

前回は和算書について書きましたが、江戸後期の天保8年に『算法地方大成(さんぽうじかたたいせい)』という書物が刊行されています。これは長谷川寛(はせがわ・ひろし)という和算家による、田畑の町見術(ちょうけんじゅつ)(測量法)や租税の計算法などを平易に解説した手引き書で、名義上は前回見たような具合で弟子の秋田義一(あきた・よしかず)編となっています。この本はわりとよく目にするのですが、天保8年の5月に官許を得て刊行されたものの、同年8月にすぐさま絶版処分になったといういわくつきのものです。どうも、税法などの専門知識が世に広く知られることをきらった幕府の代官たちの意向がはたらいた、という事情だったらしいです。
この『算法地方大成』を含む、田制・年貢・普請・治水など、農政・民政全般を扱った書物のことを「地方書」と言います。これを「ちほうしょ」と読んでしまうと、日本史の研究者から即ダメ出しを食らいますので注意しましょう。

有名な地方書としては、『地方落穂集(じかたおちぼしゅう)』『田園類説(でんえんるいせつ)』『民間省要(みんかんせいよう)』といったものがあり、とくに寛政6年成立の『地方凡例録(じかたはんれいろく)』11巻は代表的なものとして知られています。これは高崎藩の郡奉行(こおりぶぎょう)だった大石久敬(おおいし・ひさたか)というひとが藩主の命を受けて執筆したもので、その性格上、版行はされませんでしたが、かなり広く筆写されたようで、写本を目にすることはけっこう多いです。幕末の慶應2年になって『校正地方凡例録』という木活字印本が少部数刊行されており、明治に入ってからすぐ、『改正地方凡例録』6巻(明治2年)・『改正補訂地方凡例録』20巻(同4年)があいついで出版されています。

漢籍では、「史部・職官類・官箴之屬」の『牧民忠告(ぼくみんちゅうこく)』『牧民心鑑(ぼくみんしんかん)』『福惠全書(ふくけいぜんしょ)』といったものがこれに類した性格を持ち、官版をはじめとする和刻本もいくつか出ていますが、これらは「地方官の心得」というスタンスで書かれたものです。あるいは、「子部・農家類」の『齊民要術(せいみんようじゅつ)』や『農政全書(のうせいぜんしょ)』といったもののほうがむしろ近いもしれません。
「子部・農家類」には、農業の技術書や個々の植物についての著作なども収められますが、特徴的な性格のものとして「救荒書(きゅうこうしょ)」と呼ばれる一群の書物があります。これは、飢饉のときに食べられる植物や、凶作の事前の備えなどをまとめたもので、代表的な漢籍としては、上述の『農政全書』の編纂者である明末の徐光啓(じょ・こうけい) の編による『周憲王救荒本草(しゅうけんおうきゅうこうほんぞう)』14巻があり、『救荒野譜(きゅうこうやふ)』1巻と合刻した和刻本も出版されています。
和書のほうでも、『民間備荒録(みんかんびこうろく)』『救荒本草啓蒙(きゅうこうほんぞうけいもう)』といった救荒書が江戸中期以降いくつも出されており、著名なものとしては、名君として知られる米澤藩の上杉鷹山(うえすぎ・ようざん)が編ませて藩内に頒布したという『かてもの』(享和2年刊行)があります。これは82項目の植物について調理法・貯蔵法などを解説したもので、数十年後の天保の大飢饉の際にも大いに役立ったとされ、戦後の食糧難の時代にも翻刻されたり、これをもとにした書物が出されたりしたそうです。もっとも、実際にそれらに書かれていた野草を調理してみたところ、「のどに引っかかって食べられたものではなかった」という証言もあったようですが。

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