こんにちは。AS 伊藤です。主に和漢古書を担当しています。
一昨年、往来物や節用集といった書物について書きましたが、教育や実用的教養にかんする本で、ほかによく見るものとして、江戸時代に日本で独自に発達した数学である和算関係の書籍があります。
江戸時代の寺子屋で、初学者用の算法の教材として広く用いられたのは、『塵効記(じんごうき)』という江戸時代初期に成立した書物で、『庭訓往来』と同じく何百もの版があります。
それらの中には、巻末に「遺題(いだい)」という問題集をつけたものもあり、その回答と新たな遺題をつけた改版が次々にリレー形式で出版されていくという慣行が生まれました。これを「遺題継承」といい、漢籍(数学関係は「子部・天文算法類・算書之屬」に分類されます)などではあまり見られない和算書の特徴の一つになっています。
和算が大いに発展するのは、元禄の頃に活躍した有名な関孝和(せき・たかかず)の時ですが、在世時はその著作は大部分、弟子のあいだで写本で知られるのみで、広く世に知られることはなかったといいます。学術的な和算書の出版が盛んになったのは18世紀半ば以降で、とくに明和6年(1769)に刊行された久留米藩主の有馬頼徸(ありま・よりゆき)による『拾璣算法(しゅうきさんぽう)』は、関流で秘伝とされていた内容を一般に公開したもので画期的とされます。ただ、大名が自分で学術書を著述・刊行するというのははばかられたのか、この本は「豊田文景」という実在しない藩士が書いた体になっています。この場合、「豊田文景」は有馬氏のペンネームと解してよいでしょう。
以降幕末に至るまで、関氏の流れをくむ関流のほか、会田安明(あいだ・やすあき)の最上流(さいじょうりゅう)などから、論戦が交わされつつ多くの和算書が刊行されました。中には、「壺中隠者」と称する和算家が「季女」(末娘)に教えていた内容を、娘さんが「輯(あつ)めて巻を為(な)し」出版に至ったという、『算法少女(さんぽうしょうじょ)』と題するユニークな書籍などもあります(なお、この本を題材にした同名の児童小説やそれを漫画化したものなどがあるようです)。
和算書にかんし、目録作成において注意すべきこととしては、責任表示のことがあります。他のジャンルの本では、巻頭に編著者が列記されているとき、先頭に「〇〇閲」とある大先生はだいたい二次的な校閲者・監修者で、どちらかというと注記として記録しておいたほうがよいことも多いのに対し、和算書の場合は、多くの場合「閲」とある先生がほんとうの著者で、その後に「××著」とある著者は、実質としてはたんなる助手だったり、名義だけの存在だったりします。ですので、和算書の場合は、最初に「〇〇閲」と記されている人を、第一著者としてそのまま記録したほうがよいことが多いです。
このほか、漢文で書かれている場合、返り点のみで句読点や送り仮名の付いていないものが他のジャンルに比べて多い、という特徴があるようです。これは、数学の内容の理解にあたって、細かい読み方を決めておく必要はなく、文章における論理構造さえ把握できていればよい、ということなのかもしれません。こうしたものは「返点付」と注記します。