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おしゃれ全開-和漢古書の書名と情報源(5)

データ部AS・伊藤です。主に和装本を担当しています。

前々回前回、巻頭の書名をそのまま採用してはいけない例をあげてみました。巻頭の書名を採用することが不適当な場合、NCR87R3の規定によれば「題簽,表紙」が同じく最も優先順位の高い情報源になります。今回は、この題簽(だいせん)の書名について見てみましょう。

題簽(題箋と書くこともあります)というのは表紙に貼られた書名や冊次の記された短冊状の紙片で、著者名や出版事項などその他の情報は無いのが多数派です(時代が下るとそれらの情報もあるものも増える傾向にあります)。
貼付位置としては表紙の左肩か中央がふつうですが、国文学系のジャンルの図書の場合は日本古来の伝統を踏まえて中央の割合が高いようです。左肩に貼付した場合、その右がわに副題簽(ふくだいせん)もしくは目録題簽(添え外題)と言って部編名や巻ごとの目次を記した四角い紙片が貼られていることもあります。
また、草双紙では絵題簽(えだいせん)と言って絵入りの幅広のものが左肩に貼られていることが多く、このジャンルの図書では、書名や出版者の情報はここにしか存在しない、ということがしばしばあります。

当然ながら刊本では印刷されたもの、写本では手書きのものであるのがふつうですので、そうでないケース、すなわち刊本なのに題簽は手書きというような場合は、わかるように記述しなくてはなりません。当然、題簽が剥落してしまったものを後人が付け直したというケースが多いのですが、貼り直しの場合、全然違う本のものを間違って、あるいは時に意図的に貼っていることがあったりします。
剥落した題簽を本体に挟み込んでいるような場合もよくありますので、見落とさないようにしましょう(剥落自体はきわめてよくあることですので、通常はそのことは一々注記する必要はないかと思います)。ちなみに、唐本はそもそも題簽を用いていないことが和本より多いのですが、まれに数冊分の題簽が刷られている遊び紙が封面の前後に付けられていたりすることがあります。切り取ってお使いください、ということなのでしょうね。

ほんらいの表紙の外がわにさらに後補の表紙をつけている場合、題簽が二つあるといった事態が生じたりしますが、その場合はもとからあったほうを原題簽(げんだいせん)として記述することになります。また、帙の表紙や背に貼られているものは帙題簽(ちつだいせん)と称します(図書本体ではないので、情報源としての優先順位は低くなります)。
なお、ときに題簽の雰囲気を模して表紙にじかに印刷してあるような場合もありますが、それは「表紙の書名」ですので、「題簽の書名」としてしまわないよう注意しましょう。

さてこの題簽や表紙、ある意味一番目立つ部分でもあり、ほんらいの「造り手の主張」がもっとも表れている箇所であるのは確かなのですが、情報源としてはやはり物理的に無くなっていたり取り替えられたりしやすいという欠点があります。また、多巻物の場合、それ自体が情報として安定していないことがある、と言えます。どういうことかと言うと、各冊ごとに書名の表記が変わっていることがしばしばあるのです。
巻頭の書名の場合でも巻ごとに変わっていることはありますが、巻頭の書名の場合はちょっとした語順や表記の違いといった軽微な変化であるか、さもなければ『三体詩』3巻の場合のように、各巻の内容や成立上の経緯に基づくところの相違だったりするのに対し、題簽や表紙の書名の場合は、内容とは関係なくしかしきわめて確信犯的なものです。
たとえば、寛政5年刊の『歌袋(うたぶくろ)』6巻という本では、各冊の題簽の書名が「うたふく路」「宇多布くろ」「う堂婦具ろ」「宇た不九呂」「うた婦く路」「菟多不具路」という表記になっています。
同じように、享和4年刊『當世嘘の川(とうせいうそのかわ)』5巻では、「當世嘘之川」「當世うそのかは」「當世空言乃河」「當世嘘農川」「當世うその皮」、あるいは文政4年刊『三十石艠始(さんじっこくよふねのはじまり)』6巻では「三拾石夜舟濫觴」「卅石夜ふねの濫觴」「さん十石よふねの肇」「三拾こく夜ふねの始」「卅石夜舟のはじまり」「三ぢう石夜舩の肇」といった具合です。
ここにあげたのはほんの一例ですが、とにかくこういう具合に、同じ訓の別の漢字や万葉仮名・変体仮名の組み合わせ等々、和語漢語とりまぜてとにかく表記を各冊ごとに変化させていく、というのが江戸時代の本の造り手の「オシャレ感」なのです。これらをみな同じ表記で揃えてしまうのは、野暮と言いますか不粋と言いますか、たしなみもしゃれっ気もねえわなあ、という話になります。実際、国文や国学関係、小説では人情本や滑稽本といったジャンルのものでこうした実例が多く、それ以外のお堅い学問や実用書、漢詩文集などではあまり見かけません。

こういう感覚は現代には引き継がれていませんが、この時代の図書を扱うのであれば、このちょっと独特なセンスを理解し、各冊の題簽の表記に知識を駆使し工夫を凝らしているさまを面白がりたいところです。しかしながらこうした本について、現代書の「4情報源」という規定に基づいて、題簽を表紙に含めそこからタイトルをとって物理単位でデータを作ってしまったら、いったいどんなことになってしまうか、考えるだに恐ろしいところ。やはり和漢古書と現代書とでは、情報源も書誌作成単位も同じように考えてはダメだ、ということのもっともわかりやすい実例と言えるでしょう。

コメント (2)

藤森馨:

図書学を専門としていますが、ご指摘の通りと存じます。私は便宜上、和漢書何れも(漢籍の場合は当然ですが)漢字で記されている書物は、原則巻頭から書名を取るように心懸けています。

AS伊藤:

藤森様、コメントありがとうございます。
「内題か外題か」の最後のところでも書きましたが、おっしゃるとおり、(特定のジャンルのコレクションという場合以外は)原則巻頭からというのが、実作業にあたっても適切であろうと思っております。

ちなみに、「特定のジャンル」で私の頭に浮かんでいたのは、お公家さんの日記の類とか俳諧関係のコレクションなどでした(もちろんこれらでも、全ジャンルに跨った蔵書の一部であれば内題主義を採用しております)。

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