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和漢古書あれこれ ―蘭学書

こんにちは。AS 伊藤です。主に和漢古書を担当しています。

前回、医書について取りあげましたが、日本では江戸中期以降、前回見たような漢方医学の本のほかに、いわゆる蘭方の本も出版されるようになります。
有名なのはもちろん杉田玄白(すぎた・げんぱく)の『解體新書(かいたいしんしょ)』で、安永3年(1774)に初版が刊行されていますが、『蘭學事始(らんがくことはじめ)』でその苦心が描かれているとおり、初めて西洋の本から直接翻訳したもののため誤訳も多かったということで、玄白が高弟の大槻玄澤(おおつき・げんたく)に命じて訳し直させた『重訂解體新書(ちょうていかいたいしんしょ)』が文政9年(1826)に刊行されており、こちらを目にすることのほうが多いかもしれません。
このほか、よく目にする蘭方医学の訳書としては、宇田川玄随(うだがわ・げんずい)の『西説内科撰要(せいせつないかせんよう)』、その養子の宇田川玄真(うだがわ・げんしん)による『醫範提綱(いはんていこう)』『遠西醫方名物考(えんせいいほうめいぶつこう)』、伊東玄朴(いとう・げんぼく)による『醫療正始(いりょうせいし)』、緒方洪庵(おがた・こうあん)による『扶氏經驗遺訓(ふしけいけんいくん)』などがあります。

西洋の科学書の翻訳は医学にとどまらず、さまざまなジャンルの書籍の翻訳も進められました。主要なものとして、古銭収集でも知られる福知山藩主・朽木昌綱(くつき・まさつな)による『泰西輿地圖説(たいせいよちずせつ)』(地理学)、上述の宇田川玄真(榛斎)の養子の宇田川榕庵(うだがわ・ようあん)による『舍密開宗(せいみかいそう)』(化学)・『海上砲術全書(かいじょうほうじゅつぜんしょ)』(沿岸砲術)、蛮社の獄で永牢(えいろう)となった高野長英(たかの・ちょうえい)が逃亡・潜伏中に訳出した『三兵答古知幾(さんぺいたくちき)』(陸上戦術)、その長英に娘を嫁がせたとも伝わる青地林宗(あおじ・りんそう)による『氣海觀瀾(きかいかんらん)』(物理学)などがあります。なお、これらのなかには、オランダ語以外の原書からオランダ語に訳されたものの重訳というケースもかなりあります。
これらの江戸時代の蘭学書は、原書の忠実な翻訳というものは少なく、底本とされる書籍から抄訳したものに、他の参考にした書籍の所説や自身の見解を加えて自由に再構成したものがほとんどで、基本的に当時の他の書籍と同じく巻立てによる構成を取っています。とはいえ、ベースになるものについて、原本の刊行の経緯を「鏤行セシハ彼紀元千八百三十二年即本朝天保三年ニ在リ」云々といった具合に、凡例や序文中にちゃんと記してくれているものもあります。

蘭学書ですこし苦労するのは、原著者が誰なのかをつきとめることで、もちろん巻頭にきちんと誰それ著と明記されていることもありますが、序文や凡例のなかにだけ、誰それの著作を訳した云々と書いてあることも多いです。
厄介なのは、欧米人の表記が多くの場合漢字による当て字であることで、「越爾蔑嗹斯」(Ermerins)とか「業鹿力多般牒兒多児冷」(Gerrit van der Torren)とかいったような具合なので、なかなか目が慣れてくるのもたいへんですね。表記のしかたが図書によって違っていることも多く、たとえば『解體新書』の原著者クルムス(Johann Adam Kulmus)については「闕児武思」「鳩盧暮斯」「鳩盧模斯」何通りかの表記があります。また、漢字形の頭一文字を取って「○氏」と称することもよくあり、たとえば上述の『扶氏經驗遺訓』の「扶氏」は、フーフェランド(Christoph Wilhelm Hufeland)を「扶歇蘭度」と表記した先頭の一文字によるものです。
もちろん人名をカタカナで表記している場合もありますが、現代の表記と同じとはかぎりません。いずれにしろ原綴が記されていることはまずないのですが、やはり各種参考資料やネット上の情報等を駆使して、正しい著者典拠にできるだけリンクさせたいところです。

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