撰文者と揮毫者 ― 和漢古書の法帖の書誌(その4)
こんにちは。AS 伊藤です。主に和漢古書を担当しています。
前回まで法帖の印刷形態について書きましたが、今回は、書道手本において主たる責任表示としてどの役割の人を選ぶか、という問題について考えてみたいと思います。
王羲之の「蘭亭序(らんていじょ)」や空海の「風信帖(ふうしんじょう)」といった場合は、内容をしたためた著者が同時に筆で書いたひとその人であるわけですから、責任表示でとくに迷うこともありませんが、たとえば趙子昂(ちょう・すごう)の「行書赤壁賦」や松下烏石(まつした・うせき)筆の「千字文」といった場合はどうでしょうか。こうしたケースでは、それぞれの本文の撰者自体は筆者とは別にいるわけで、巻頭に「宋蘇軾撰」とか「周興嗣次韻」といった具合に、テキストの著者が明記されていたりすることもよくあります。
ですがこうした場合、「書」の作品としての価値を決定づけているのは、だれの書蹟かということであって、テキストの内容が問題になるわけではありません。「赤壁賦」や「千字文」はこの場合、書の材料として選ばれているだけで、内容を誰が作ったということに意味があるとは言いがたいです。
ということで、法帖においては、いわゆる標目著者となるのはあくまで「書者」であって、撰者ではありません。「子部・藝術類・書畫之屬」のところで、いろいろな書家の手になる「赤壁賦」が蘇軾のもとに集められてもあまり意味はないので、テキストが何であれ趙孟頫(子昂)の書がまとめられていることにこそ意味があるのです。
ことに、日本の書家が中国の文章を書したものの場合、それは基本的に国書の「書」の作品であって、テキストの著者が中国人であり、テキストが中国語だからといって、漢籍にするわけにはいきません。こうしたものについては、すくなくとも「タイトルの言語」は日本語とすべきものと思います。『国書総目録』はこうしたものを日本人の「著作」ではないということで採録対象から除外してしまっており、岩坪充雄氏が「唐様法帖の書誌学的問題点」(2006)という論文でその扱いが不適切であることを指摘しています。
ただ、モノの成立過程を考えた場合、最初にあげたような「撰并書」というのでないケースにおいては、テキストをしたためた人(撰文(せんぶん)者)と書した人(揮毫(きごう)者)にははっきりと先後関係があるわけなので、その点では第一著者としてはやはり撰文者のほうを記録したくもあります。実際、撰文者がはっきりしている書道手本では、ふつうの図書のように巻頭に撰者が記載されていて、書者のほうは本文末に「~書」「~筆」「~毫」などとあることが多いですし、どちらも巻末にあるような場合でも、基本的に撰者のほうがさきに位置しています。
とはいうものの、表紙のついている法帖などでは、見返しや題簽に「〇〇先生書」と書家の名前を大書していることも多いです。ですので、揮毫者と別の撰文者は、やはり責任表示とはせず、著者にかんする注記として記録しておいたほうがよいのかなと思いますし、上記のテキストや「帰去来辞」(陶淵明)「岳陽楼記」(范仲淹)といった定番中の定番のものの場合は、その注記さえも不要ではないかと思います。
また、前回触れた「臨書」の場合は、実際としてはそれを行ったほうの人の「作品」ということになります。たとえば「臨智永眞草千字文」といった場合は、智永(ちえい)書の「眞草千字文」を臨書したものということで、臨書者のほうが責任表示として記録されることになります。ただ、オリジナルの書者との関係は、いわばテキストにおける原著者と改編者の関係に類しますので、それに準じて扱えばよいかもしれません。
「搨模」のほうは名の知れた書家がやるものでもありませんが、ただ名筆の書蹟から一字一字を双鉤填墨で写し取ってそれで文章を再構成する「集字(しゅうじ)」においては、これを行った人が副次的な責任表示として記録されることになります。著名なものとして、王羲之の行書を集めて碑に刻した「集字聖教序(しゅうじしょうぎょうじょ)」という碑帖がありますが、これなどは「(晉)王羲之書 ; (唐釋)懷仁集字」と著録されることになります。
ちなみに、碑帖の場合は、以前触れた「題額」を書いた人が本文の筆者と並べて記載されていることもよくあり、こうした人も2番目以降の責任表示とするか、著者にかんする注記として記録するかしておいたほうがよいでしょう。
以上の通り、撰文者と揮毫者が異なる「書」の作品の場合は、揮毫者を主たる責任表示とすべき、というのが原則ですが、実のところ例外もあります。たとえばある人の著作中の文章や語句を、何かの記念などでいろいろな書家が書したといった場合の一つ一つの書や、「赤壁賦」や「千字文」のような定番のネタではなく、書家が個人的に好きな詩人の詩句をいくつか選んで書したのを本にしたといったようなものは、これは誰のテキストかということに意味がありますので、撰者のほうを主たる責任表示としてもよいのではないかと思われます。
あるいはまた、書した人が名のある書家ではなく、単なる一個人が練習のため書蹟を臨書したというような場合は、客観的に見てその人の「書」の作品と見るのはやはり不適当で、通常の書写資料と同じく、製作事項として「何某 [写]」としておくべきものと思います。もっとも、これは立場や見解によって扱いが分かれるであろうところで、ご当人は責任表示として「何某書」、製作事項として「何某 [自筆]」とせよ!、と強く主張されるかもしれませんが。。。