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呪文?「歳舍柔兆涒灘」―和漢古書の出版事項(12)

こんにちは。AS 伊藤です。主に和漢古書を担当しています。

前回まで出版者について見てきましたので、つづいて出版年について見ていきましょう。

和漢古書では、刊記・奥付見返し・扉に出版年の記載があることが多いですが、基本的に「文政七年」などと「年号+年次」で記載されている場合のほか、「文政甲申」といった具合に「年号+干支」となっている場合もよくあり、どちらも出版事項としては「文政7 (1824)」のように西暦を付記して記録します。後者のパターンもごくふつうにありますし、干支は60年でひとめぐりなので、年号と組み合わせればまずユニークなものとして決定できますので、とくに注記とかする必要はないかと思います。
もっともダブってしまうケースが一つだけあり、中国清代の「康煕壬寅」は「康熙元 (1662)」の場合と「康煕61 (1722)」の場合と両方あるのですが、まあ60年も離れているので、たいていはその他の傍証からどちらなのか見当がつきます(なお、「元年」とか「紀元」とかあるのは「元」と記録したほうがよいと思いますが、「1」に置き換えて記録しても間違いということでもないと思います)。ちなみに、康熙帝の孫にあたる乾隆帝は、60年できちんと(?)譲位してくれています。

ただ、年号がなく干支しかないという場合もありますので、この場合は「刊記に「戊辰三月中旬」とあり」などと注記し、推定できれば出版年を補記で記入することになります。洒落本や黄表紙といった「読みとばし系」の本はこのパターンがしばしばありますが、十二支のほうしか書いていないことも多いです。黄表紙では、内容といっさい関係なく絵題簽に牛やらイノシシやらの絵があったりして、それから干支が推定できたりなどということもあります。
また近代の漢籍(唐本)では、辛亥革命(1911年)後も共和制を認めたくない清朝の遺臣が「民國○年」など意地でも使わず、干支のみを記しているのもよく見ます。時に「宣統甲寅」(=1914年)などというありえない年記にお目にかかったりします。
なかなか興味深いのは清代に相当する時期の朝鮮王朝の図書で、冊封(さくほう)体制下でおとなしく「雍正三年刊」などと宗主たる清朝の年号を使っているものもありますが、やはりどうもイヤなのか、干支のみにしたり、「王之十一年」のように王様の即位後何年と書いたりしているものもよくあります(こういうのは注記した上で「[純祖11 (1811)]」のように記録します)。さらには、中華の正朔(せいさく)は奉じるとしても、夷狄(満洲人)の王朝なぞ絶対に認められるものかと、明の最後の元号を使って「崇禎二百四年」(=1831年)とか「崇禎後三戊子」(=崇禎元年(1628)後の3回目の戊子の年=1768年)などといった具合に書いているものもあり、この気合っぷりには恐れ入りましたという気分になります。

干支についてもう一つ知っておいたほうがよいこととして、歳陰歳陽というものがあります。これは、木星の公転周期がおよそ12年であることから、木星(歳星)あるいはその天球上の対称点に仮想された太歳(たいさい)という星の位置を十二支に配当して年を記録する「太歳紀年法」という方法が古代中国にあるのですが、この十二支(歳陰)および十干(歳陽)のそれぞれに「困敦(子)・赤奮若(丑)・攝堤格(寅)・單閼(卯)・執徐(辰)・大荒落(巳)・敦牂(午)・協洽(未)・涒灘(申)・作噩(酉)・閹茂(戌)・大淵獻(亥)」「閼逢(甲)・旃蒙(乙)・柔兆(丙)・強圉(丁)・著雍(戊)・屠維(己)・上章(庚)・重光(辛)・玄黓(壬)・昭陽(癸)」と名前をつけたものです。
これを使って「歳在閼逢攝堤格(=甲寅)」「歳次昭陽作噩(=癸酉)」などと年を表している図書があります。太歳が○○の位置に在る年、ということです(「次」とか「舎」とかは「やどる」という意味になります)。ごらんのようにふだん絶対目にしないような文字が羅列されていますので、何かの呪文かとびびってしまいそうになりますが、慌てずに干支に置き換えてください。ちなみに「柔兆涒灘」(じゅうちょうくんたん)は「丙申」となり、今年平成28年のえとになります。

和漢古書では現代書と違って月まで入力することはありませんが、月の別名なども知っておくとよいでしょう。よく目にするのは、春夏秋冬にそれぞれ「孟(=長男)」「仲(=次男)」「季(=末子)」をつけて、4月を「孟夏」、12月を「季冬」のように書いているものですが、ほかにも「青陽(=1月)」「林鐘(=12月)」などと言った別称があります(ちなみに正月とかこの林鐘とかが出版月となっていることが多いですが、名義上だけの日付もあるかもしれません)。和書の場合は、「睦月」とか「霜月」とかのようなものもよくあります。
また月を十日ごとに分けた言いかたとして、今でも使う「旬」のほか、「浣(かん)」や「澣(かん)」もよく見られる表記です。「二十」「三十」が「廿」「卅」と書かれていたりするのは知っているひとも多いでしょうが、「二十○日」を「念○日」と書いていたりするのもしばしば目にするところです。

年号の後には西暦を付記しますが、厳密に言うと西暦と旧暦の年は若干ずれているので、年末の日付とかではほんとうは違うことになりますが、年単位での記録ですから目をつぶってよいと思います。なお、日本では年内でも即日に改元するので一年のうちに二つの年号があることはよくありますが、中国では「踰年(ゆねん)改元」といって、代替わりがあった翌年の正月に改元しますので、そうしたことは基本的にありません。
西暦自体が書いてあることはもちろんほとんどありませんが、近代のキリスト教の布教書などだと「耶蘇降生一千八百八十年」などとあることもあったりはします。清末以降の中国や朝鮮半島の本では西暦の影響でつくられた「孔子紀元」というのもまれにあったりしますが、じつは「神武紀元」(皇紀)というのは、和漢古書では案外とお目にかかりません。

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